552321 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

ホタテバーガー☆ミ

ホタテバーガー☆ミ

明治2年(1869)

明治2年(1869)35歳

旧暦新暦天気出来事
1.1 2.11晴天新餅を各隊に分与する。前軍をフランスの兵制にし各隊の役号を改め規律を厳しくして調練する。
歳三、夜、小柴長之助と共に酒井を訪れ、面談する
1.2 2.12小雨市内大巡邏
1.6 2.16  酒井の訪問を受ける
1.14 2.24  酒井の訪問を受ける
1.15 2.25  陸軍隊より24名、彰義隊より8名が新選組に加入。
1.17 2.27  神山東照宮の廟を拝す。五稜郭の兵隊悉く整列し東照宮を拝し、神酒を全軍に与える。
ブリュネ、全軍の上等士官と会い「解隋を戒め協力敵を防がん事を誓紙を取て稜城に約す」罰則を新たにして賞罰を正す。
このころ五稜郭、千代ヶ岡双門を修復し胸壁を築き巨砲を備え専禦の設けを為す
1.19 3.1   酒井の訪問を受ける
1.25 3.7   酒井と面談
1.28 3.10  新選組の市中取り締まりを賞して、金千疋を隊士に与える。酒井と面談
1月     榎本軍、各地へ分兵配置を決す。新選組は箱館市中取締に任ず。
2.3 3.15  新政府軍米国からストンウォールを入手(甲鉄艦)。総指揮官は佐賀藩海軍参謀増田虎之助。
酒井と面談
2.4 3.16  酒井と面談
2.7 3.19  酒井と面談
2.28 4.9   土方、市中取締り行届きを称して金子を与える(1000疋!)
3.4 4.15  酒井の訪問を受ける。
箱館病院掛頭取の小野権之丞(会津藩公用方)、土方を訪れるが不在
3.9 4.20  新政府軍、品川沖出港「甲鉄」「飛竜」「陽春」「春日」「丁卯」「豊安」「戊辰」「震風」
3.16 4.27  新政府軍艦隊、浦賀港を出港
3.17 4.28  神山の東照宮で必勝祈願
3.19 4.30  新政府軍艦隊、奥州鍬ケ崎(現在の岩手県宮古市鍬ケ崎)に入港(18日9時とも)
3.20 5.1  晴強風南部宮古に停泊している西軍艦隊を奇襲計画。
二艦が甲鉄の両舷接舷し兵士が乗り移って占拠する。そして甲板への出入り口を封鎖したまま箱館まで回航するアポルタージュ・ボールディングで甲鉄艦を奪取せんとの案をもって、夜半、回天、蟠竜、高尾の三艦、箱館を出港。
歳三は陸兵総督として回天に乗艦する(検分役、添役?)土方、大島寅雄、相馬、野村、神木隊、彰義隊、遊撃隊
3.22 5.3  晴三艦ともに鮫港沖に停泊後、南下するが風強く離散する
3.23 5.4  晴南風八戸に入港
3.24 5.5   回天、高雄の二艦、宮古の山田湾大沢港に入る。
土方・野村上陸して敵情斥候(?)。
蟠竜は行方不明
3.25 5.6  晴 桜咲く「宮古湾海戦」蟠竜は行方不明、午前3時作戦決行のため行動を開始するが高尾機関に故障を起こし、回天単独にて宮古湾に突撃。
激戦わずかに30分相馬負傷、野村利三郎、甲賀源吾戦死。
「高尾」回天と合流するも敵艦に攻撃されて南部野田郡尾元村に上陸し火を放って逃亡した。
3.26 5.7  晴回天箱館に帰着。沖之口番所より死傷者を引き上げる。蟠龍戻る。
新政府軍、青森へ到着
      相馬主計、安富才助、大野右仲は軍監として箱館奉行永井玄蕃の下。新選組頭取に森常吉
4.6 5.17 晴新政府軍が24時間以内に蝦夷侵攻を決行するとの情報がイギリス商船よりもたらされ市民の避難所が設けられる。
市中取締りの新選組に厳重警戒が命じられる。土方、榎本の使いとして松平定敬、小笠原長行、板倉勝静に室蘭に退避するように伝える。
4.7 5.18  新選組は弁天台場を本営とし、箱館山上、寒川(西ノ背面ノ海岸要地ナリ)、山背泊(東風)、十番ノ観世音(臥牛山ノ上ニあり函ノ左右ヲ目下ニ見下シ入津船ヲ見張り肝要ノ地ナリ)、沖ノ口等の警戒にあたる。
新政府軍蝦夷地上陸?山田顕義、乙部村に上陸(?)
十二時、各国艦箱館港を出港避難。
4.8 5.19  新政府軍、青森出港
4.9 5.20晴曇西軍、乙部へ上陸。進軍開始。
一隊は江差、松前の海岸沿いに、一隊は木古内、また別の一隊は山越えで(二股口)五稜郭、箱館を目指す。
一聯隊と銃撃戦。敗退し江差へ退却。そこでも艦砲射撃を浴び松前方面に撤退
土方、奉行添役の大野右仲、大島寅雄、守衛新選組、衝鉾隊、伝習歩兵隊を率いて二股口へ出陣。大野市渡に宿陣。ここを後方基地とし市渡神社や名主沢村家を拠点とする(?)
松前は遊撃隊、木古内は大鳥隊が担当。
4.10 5.21 晴土方隊、二股に達する。フォルタンの指揮により二日掛りで台場山下二股(?)を本陣とし16箇所の胸壁を構築、西方の天狗岳に前線基地を設ける。
午後三時頃より敵大挙(600人)して進撃、戦闘。
江良戦闘。松前から遊撃隊・陸軍隊援軍。根武田に宿陣翌朝松前に帰還。伊庭円陣を組んで曰「我命を奉じて此の地を守る」
4.11 5.22  土方、伝習隊・衝鋒隊に新選組の一部を率いて、二股口に向かい、胸壁を構築して敵に備える
弘前兵、湯ノ岱(ゆのだい)に到着(木古内)
松前の一聯隊、遊撃隊と砲兵隊の加勢を得て反撃。敵は小砂子まで敗走。旧幕府軍は本道筋(砲隊・一聯隊)山手筋(遊撃隊)から追撃。新政府軍は茂草村の陣屋を自焼して江差へ退く。
江差彰義隊守りきれず陥落。
4.12 5.23  土方軍、二股口の天狗岳、台場山に守備。胸壁を作らせる。
新政府軍、稲倉石に到着
見国隊関源治以下370名仙台から砂原着
大鳥圭介、伝習歩兵隊、額兵隊、彰義隊を率いて箱館を出立。木古内へ。湯ノ岱から進軍してきた新政府軍と遭遇。大鳥は退却
松前隊、江良町まで進軍するが撤退命令。伊庭激怒
桑公、アメリカに亡命するため出港するが横浜で家臣の説得に会い謝罪
4.13 5.24晴後大雨新政府軍、正午過ぎより天狗岳の攻略を開始。銃撃戦の中天狗岳を迂回した敵軍に背後をつかれ敗走し、午後二時ごろより台場山を巡って銃撃戦。
二股口の土方軍翌朝まで至近戦で16時間の激戦。
新政府軍は七連発のスペンサー銃や五連発のスナイドル銃を装備。対する土方軍は単発のミニエー銃だった。数に劣る土方軍は奇襲。25名の別働隊に河を渡り山を越えて新政府軍を襲わせた。この奇襲により朝7時新政府軍は稲倉石へと撤退。
我軍地理ヲ得ル。且土方君将タレハ能機に応シ勉強シテ防ク(石井談)
土方大野まで下がる。
松前遊撃隊。江良へ進軍するも五稜郭より松前まで撤退命令。松前に戻ると新政府軍の軍艦より折戸台場砲撃。勝敗決せず。
大鳥彰義隊、笹小屋にて新政府軍と衝突、敵を撃退する。
松平定敬箱館離脱
木古内大鳥、星戦闘。善戦。
4.14 5.25 晴前日から戦闘が継続し、ついに新政府軍を撤退させる。
仙台の見国隊400名と桑名藩士5名が砂原に到着する。後日桑名藩士のうち4名が新選組に加入する。
4.15 5.26 晴土方、五稜郭に戻り市村鉄之助を日野へ遺品を届けさせるため落とす。
五稜郭を出た鉄之助は思わず振り返ると城門の小窓から見送っている土方が見えた
新政府軍援軍が江差へ上陸
4.17 5.28  松前軍、江差へ進軍するが海陸両方より攻撃を受け清部まで敗走。松前陥落、吉岡方面へ敗走。
折戸浜大激戦。遊撃隊岡田斧吉、本山小太郎戦死。「まてよ君 冥土もともと 思ひしに しばし遅るる 身こそかなしき」(伊庭)
4.19 5.30  見国隊、木古内の星を訪ねる。
鷲ノ木の衝鋒隊別当へ移動。伝習隊茂辺地へ移動。木古内の衝鋒隊松前から退いてきた本隊と合流し知内へ移動。札苅の遊撃隊と泉沢の一聯隊木古内へ移動、額兵隊と合流。五稜郭の砲兵隊木古内軍に合流。
4.20 5.31 霧第2次木古内戦。新政府軍村に火を放つ。伝習隊・額兵隊・衝鋒隊援軍に来る。大鳥軍、早朝を襲われ総崩れとなって泉沢へ敗走。しかし松前から敗走してきた旧幕軍の攻撃を恐れた西軍は笹小屋、稲穂峠に退避。
当別沖では回天、蟠龍が春日と海戦、それを知った大鳥は木古内口撤退。矢不来、茂辺地まで撤退する。
伊庭被弾。負傷者は船で箱館病院へ送られた。旧幕軍木古内を奪還するが防戦に不利なので全軍泉沢へ引き揚げる。
4.21 6.1   「蟠龍」「回天」「千代田」知内沖にて新政府軍の「飛竜」「春日」と海戦。
4.22 6.2   有川村方面不利となって遂に敗走。ここが破られると二股の退路を立たれる。
4.23 6.3  晴二股口の土方軍、午後4時ごろ西軍と戦闘(第2次戦闘開始)
弾丸が空中に交錯する光景は「疾風ノ花ヲ散スニ似タリ」(小杉雅之進「麦叢録」)
大鳥軍矢不来に布陣。
4.24 6.4  晴土方軍、未明に滝川伝習士官隊到着。
滝川充太郎率いる抜刀隊突撃し、敵を敗走さすが10時ごろ胸壁を奪われ正午ごろには台場山本陣が薩摩兵により砲撃される。戦闘は翌日午前3時まで続く。敵は煙を上げ喇叭を吹き鳴らして威嚇するが土方は惑わされる事なく戦うように告げ「退くものあればこれを斬る」
この日の戦いで伝習士官隊隊長滝川充太郎と伝習歩兵隊隊長大川正二郎が揉めるが土方は「大川の理、滝川の勇」を褒めその場を治める。
その夜兵達に樽酒を振舞いねぎらう
日が昇ってから新政府軍の疲労が濃くなったのを見て土方は抜刀突撃を行った。これにより新政府軍は崩れだし、ついに退却した。対黒田清隆(?)
「寡ヲ以テ大敵ニ当リ動カザルハ是土方君ノ力也」(石井勇次郎)
「総督法令厳正ニシテ、善ク士卒ノ心ヲ得」(島田魁)
西軍艦隊箱館入港、大砲による攻撃開始。弁天台場で防戦。箱館海戦。
4.26 6.6  晴官艦箱館へ来襲。これより三日昼夜戦い死傷尤も多し。
4.27 6.7   敵、茂辺地村に海陸共に迫る。我軍三艦陸軍を助ける為敵の五艦と戦うが、陸軍不利となり有川村に退く。
4.28 6.8   西軍、援軍が福島へ上陸。木古内・知内へ進む。海陸から攻撃。茂辺地、矢不来へ艦砲射撃。
矢不来の衝鉾隊、額兵隊有川まで撤退。亀田新田と七重浜を守る。
榎本遊撃隊を率いて有川へ出陣。千代田形、回天も春日の砲撃に帰港、有川を捨て七重浜で迎撃しようとするが兵の消耗が激しく五稜郭へ帰陣
4.29 6.9  晴官軍次第に優勢となり、茂辺地撤退により二股口の退路遮断の恐れが出て、箱館からの指令によって土方軍退却。
このとき地雷を埋めて撤退。さすが転んでもただでは起きない、土方氏。
西軍、本道、海岸、山上より攻める。海上よりも砲撃。伝習隊・彰義隊・遊撃対は対本道。額兵隊・衝鋒隊は対海岸にて戦闘。旧幕軍、富川へ敗走。額兵隊星自刃しようとするも止められ富川へ退く。
新選組に出撃命令が下り有川の敵陣を夜襲して五稜郭で隊を整え函館へ引き揚げる。
額兵隊千代ヶ岡へ派遣。 亀田新道で諸隊合流。十二時大鳥が率いて進撃。夜襲をかける
4.30 6.10  七重浜(現上磯郡上磯町)夜襲。西軍有川まで後退。
「千代田」暗礁に乗り上げる。錯乱した艦長森本は逃げ出し船は新政府軍に奪われる。責任を感じた軍艦役市川真太郎自刃。役立たず。
軍艦は回天と蟠龍のみとなる。
夜、弁天台場の大砲に釘が打ち込まれ使用不可状態に。犯人の斎藤順三郎斬首。
5.1 6.10 曇午後5時、新政府軍先鋒部隊が七重に進駐。
土方、五稜郭に帰陣
土方、箱館の新選組に七重浜への夜襲を命じる。夜、新選組は遊撃隊と共に出陣
土方、五稜郭において榎本、松平の総裁陣と会議、後、弁天台場に赴き有川出兵の命を伝える。大町万屋(ちょうさ)にて休息(大町2丁目14,15)
同夜、新選組を先鋒とする大鳥軍出立する
大鳥、新選組、彰義隊の先発組が七重浜の敵を襲撃し有川まで進撃。(?)
5.2 6.11 晴午後8時ごろ大鳥、新選組、彰義隊、陸軍隊、伝習歩兵隊などを率いて七重浜に向う(?)
西軍の艦砲射撃に箱館苦戦するも弁天台場奮闘する
新選組、夜襲をかける
ブリュネらフランス軍人、自国船で箱館を脱出、横浜に向かう
5.3 6.12曇雨大鳥、午前1時夜襲を敢行。夜にも新選組・彰義隊・伝習隊を率い夜11時亀田新道を出発七重浜に出陣する。
榎本、星の嘆願により額兵隊、衝鋒隊、遊撃隊、彰義隊を連れ赤川夜襲。成功させる。
敵艦来襲。弁天台場にて斉藤順三郎、連蔵により大砲使用不能にされる
5.4 6.13 晴土方、丁サより五稜郭に帰陣
新政府の軍艦、箱館を襲撃
新選組・衝鋒隊七重浜に夜襲。村に火をかける。今までそれを固く禁じていたが兵士たちにそれを守る余裕がない。
5.6 6.15小雨大鳥軍、彰義隊、伝習歩兵隊、陸軍隊、遊撃隊などによる夜襲を行い敵は有川に敗走(?)
この日までに榎本軍が張り巡らせた鋼鉄の綱は箱館の商船で働く水夫たちによって切断されていた。
5.7 6.16  箱館港海戦。
新政府艦隊の甲鉄、春日、朝陽、陽春、丁卯は有川沖を出港し箱館港に突入。
回天、操船不能となるが弁天台場そばの浅瀬(沖の口番所)に乗り上げさせ砲撃を続けた。三時頃敵、撤退。やっと役に立つ海軍。
5.8 6.17曇晴敵、五艦暁を侵して来る。
蟠龍は修復中回天のみで戦うも甲鉄艦に車軸を砕かれ遂に沖の口番所前の浅瀬に入る。回天、今になって活躍。
榎本総裁自ら彰義隊、見国隊、一聯隊、神木隊、衝鋒隊、砲撃隊を指揮。出陣前に全員で杯を交わす。大川村攻撃。
新選組、神山へ出張の後彰義隊、遊撃隊と共に七重浜を夜襲する
5.9 6.18 晴土方、五稜郭週番当直主任畠山五郎七郎と会津藩士箱館病院掛頭取小野権之丞を訪れる。
一本木関門の辺り海岸に砲台を築き、二十四斤加農砲を据える。
5.10 6.19 曇夜、武蔵野楼にて別盃を交わす
新選組夜半警備につく
5.11 6.20晴天箱館総攻撃。
午前三時西軍砲撃開始。箱館山裏山背泊と寒川から上陸、総攻撃開始。大野は弁天台場へ。相馬は海岸へ。
箱館港には「春日」が弁天台場と「回天」を、「雲竜」「朝陽」(「丁卯」)は「蟠龍」を砲台は「陽春」襲う。大森浜に「延年」三本川に「飛竜」「豊安」。「甲鉄」は湾中央に来り動かず。
箱館は伝習士官隊、沼沢辺に砲兵隊、寒川から山背泊は新選組、弁天台場に新選組、砲兵隊、市中には箱館奉行配下の手勢と新選組、伝習士官隊。
新選組、箱館鎮撫隊の面々すべて弁天台場に入り応戦。
弁天台場の孤立を案じた土方歳三は安富、立川、沢をつれ額兵隊、伝習隊、見国隊、神木隊などを率いて箱館奪回に出陣、7時35分頃千代ヶ岡陣屋で援軍要請のため五稜郭へ向かう大野右仲(石井勇次郎も?)と合流。一本木関門へ至る。ここで伝習士官隊滝川と会い隊を預かる。
砲台を守っていた兵士が周囲の民家に火を放つ。「脱走火事」と呼ばれるこの火事は870戸を焼き尽くす大火事に。
このとき「蟠龍」が「朝陽」を撃沈。やっと役に立った!これを好機として土方は進撃を命じる。「この機失すべからず。士官隊に令して速進せん。しかれども敗兵俄に用い難し。吾れこの柵に在りて、退く者は斬らん。子(大野)は率いて戦え。」
回天から脱出した荒井らを救援に向かい、退路を確保して再び一本木関門に戻る。
先頭を駆ける土方がようやく一本木関門に辿り着いたとき腹部に被弾。
午前9時ごろ腹部に銃弾を受け討死
「可不惜乎」説夢録
「赤子の慈母を失ふか如く悲嘆して止す。ああ惜しむべき将也」戊辰戦争見聞略記
この時付添っていたのは安富才輔、沢忠助、立川主税、大嶋寅雄。遺骸は五稜郭へ運ぶ。
土方戦死の報を大野から聞き榎本自ら弁天台場救助に向かおうとするが松平太郎がこれを止め自ら出陣するが一本木を奪取する事はできず千代ヶ岡陣屋に集結。見国隊・額兵隊・杜陵隊・小彰義隊・新遊撃隊・中島隊。戦闘不能になった蟠龍(松岡)、弁天台場へ。
四稜郭では一聯隊が、神山・赤川方面では衝鋒隊が、大川・有川及び海岸方面では大鳥伝習歩兵隊・遊撃隊・陸軍隊・彰義隊が戦い五稜郭へ退いている。新選組も犠牲多数。
新政府軍、箱館病院に乱入するも高松凌雲がこれを制止、薩摩藩池田も了承。しかし分院の高龍寺では松前藩士が乱入、斬殺する。
一、我軍三千の内所々在々鎮撫に人数を配る故に千五百人にて戦うなり、我軍戦死士官七拾壱人、隊兵士之分三百壱人 〆三百七拾弐人なり
士官手負い四拾八人兵士およそ三百人 〆三百四拾八人なり
一、官軍戦死千七百九拾八人もっともこの者箱館に招魂社これ有り千七百九拾八人と書く、そのほか手負い八百人なり。(立川主税戦争日記)
弁天台場は孤立。その夜、大野は五稜郭の堤の上で土方を偲び弁天台場の同志を想い涙する。
「月は欠けて天にあり、広野渺漫(びょうまん)たり。砲台は湾を隔てて雲煙の中に髣髴(ほうふつ)たり。ひとり兄事する所の奉行(土方)の死を歎き、同胞のごとく交わりたる者は、皆彼にありて(弁天台場)、我のみ敵陣のさえぎる所となりて到るを得ず。涙を垂れて楚の項羽の『時利あらず、騅行かず』の句を吟ず」
5.12 6.21雨天安富才輔、五稜郭で土方の実家に戦死を伝える書簡を記し、立川主税に託す。
同五月十一日函館瓦解のとき、町はずれ一本木関門にて諸兵隊を指揮遊ばされ、ついに同処にて討死せられ、誠にもって残念至極に存じ奉り候。 早朝より、七重浜沖の甲鉄より五稜郭に艦砲射撃が開始される
伊庭八郎服毒死
5.13 6.22  暁、敵海陸大挙。台場応戦するも水がなくなる。
5.14 6.23  高松凌雲、小野権之丞を仲介として薩藩池田降伏の書を送る。五稜郭と相談すると返事。
上湯ノ川の兵、降伏申入れ
5.15 6.24 晴相馬、松岡盤吉五稜郭へ。
薩藩永山「今日之事実に義戦也」榎本・松平と軍議するが「昨冬蝦夷地に来たときに嘆願書に書いたように願いを聞き届けてくれないならば死ぬまで戦うと言ったとおり降伏はできない」と返答。
千代ヶ岡陥落。中島三郎助父子討死(16、17日?)
5.16 6.25 晴永山弁天台場永井、相馬と会う。もう一度五稜郭を説得するよう言われ再び五稜郭へ行くが変わらず。
永山、千代ヶ岡で榎本と会談。「海軍全書」を贈る。この時相馬は大野を伴って台場に戻り、新選組土方の戦死を知る。 「砲台にある新選組、その長死すを聞き赤子の慈母を失うがごとく悲嘆しやまず。ああ惜しむべき将なり。
弁天台場恭順。台場の新選組103名、西軍の軍門に下る。最後の新選組隊長:相馬主計
大嶋寅雄、西軍陣地へ攻撃停止の使者に立つ。
春日左衛門、11日総攻撃新道口で負傷するがこの日服毒死
負傷者を湯の川へ移送。榎本、黒田へ本を贈る。上湯ノ川武装解除
5.17 6.26  五稜郭降伏を決める。榎本自刃を図るも止められる。
榎本、松平の総裁陣、亀田において、黒田了介に会見。安富才助これに従う。黒田本のお礼に酒を贈る
5.18 6.27 曇五稜郭降伏。
榎本、松平、大鳥、荒井の4人町家猪倉屋に謹慎
弁天台場の新選組、称名寺、実行寺などで謹慎。刀を取り上げられる。
会津藩老中萱野権兵衛容保候の代わりに責任を取って切腹
5.19 6.28  永井、相馬、松岡も猪倉屋に謹慎
5.20 6.29  榎本、松平、大鳥、荒井、永井、松岡、相馬は船で青森に送られる
5.21 6.30  台場新選組、青森へ送還
5.22 7.1   榎本、松平、永井、大鳥、荒井、松岡、相馬東京へ移される
6.9?    台場新選組、大野右仲以下97名は弘前薬王院
耕春院に安富才助以下63名、法立寺には大島寅雄以下49名移送
6.17 7.25  田村銀之助ら年少者3名、謹慎を解かれて自由となる
6.30 8.7   榎本ら7人東京に着き、軍務局糾問所に入る
7月  夕立初旬、市村鉄之助、佐藤彦五郎宅を訪れる。土方の写真、遺髪、半紙を渡す「使いの者の身の上頼み上候 義豊」
市村は涙ながらにこれまでのことを語り涙を流さないものはいなかったという
7.18 8.25  日野佐藤彦五郎宅へ箱館の降伏兵卒亀太郎が来る
7.19 8.26  台場新選組、弘前の薬王院から青森の蓮華寺へ移送
7.23 8.30  彦五郎、亀太郎を東海道まで送る
    東京九段坂下の旧幕府三番町歩兵屯所の跡に招魂社創立(後の靖国神社)
9.1610.20  台場新選組、蓮華寺から蓮心寺へ移送
10.2411.27  新選組、旧藩士は東京送り、旧幕臣は弁天台場で謹慎
10.2511.28  青森の新選組、箱館へ移る
10.2711.30  新選組、弁天台場に収容される
11.4 12.6   会津藩、嗣子・容大(かたはる)に家名相続を命じ華族に列し斗南を与える
11.8 12.10  新選組旧藩士東京送りの船、品川に到着。
今井信郎、横倉甚五郎箱館より辰ノ口に投獄される。龍馬暗殺の嫌疑のため
11.1212.14  石川武雄(竹内元太郎)南一郎(岩崎一郎)結城無二三の3人、日野の佐藤家を訪れる
11.1312.15  森常吉、出牢するも桑名藩に引き渡され交戦派の責任を取らされて切腹
横倉甚五郎、今井信郎とともに箱館より東京に送られ入牢
11.2012.22  新選組旧藩士、兵部省の達しにより各藩お預けとなる

© Rakuten Group, Inc.